久しぶりのKindle出版『蜻蛉日記』です。

 今西祐一郎の判字と解説で、与謝野晶子の誤りを全て訂正した『蜻蛉日記』の出版です。今西の解説書や論文を読んでいると『源氏物語』の研究家が『蜻蛉日記』の研究をせざるを得なかった必然性がひしひしと、また、びんびんと伝わって来ます。それはあたかも新約聖書を読む人間が、旧約聖書を読むのが必然であるがごとく、また京都の専門家が奈良に辿りつくがごとく、必然とはこれをいうのであろうと思われたのでした。

 それにしても一夫多妻の辛さを嘆くというだけの物であれば、三石は一生読むこともなかった。

 

 これは三石による今西論の抜粋で、『蜻蛉日記(中)』に詳しく述べています。

 

 兼家と対立した状態からは日記は生まれなかった。執筆当時、作者に対する兼家の気持ちは決して背反したものではなく、協力し得る状態にあったと言って良い。兼家自らの家集でなかろうと、道綱母との贈答歌を中心とした家集が道綱母の手によって編纂されることは、兼家が和歌的実績を顕現するに充分効果的であった。安和元年を下ることそう遠くない時点で、結婚生活十五年間に堆積した家集纂集を兼家が要請したのではなかったか。兼家の歌は当初から道綱母の手元に保管されていた。彼女は世に認められた歌人であると同時に、兼家の歌の管理者であった。身分的階級的落差、あるいは彼女の性格的問題性を越えて、結婚生活が長期に継続したのは、兼家が彼女の歌人としての資質を尊重したからである。それは歌人としての能力ばかりでなく、歌の管理者としての能力であった。

古代文学においては、何らかの効用を抜きにして作品の存在は考えられない。藤原氏私家集隆盛の先駆となった実頼、師輔、師氏三人の集は、決して純粋な文学的衝動のみで編纂されたものではない。その成立には、骨肉相喰むと言われた藤原政権の争いと反目があった。彼ら権門にあって私家集は『後撰集』とともに権力表示を意図したものであった事を忘れてはならない。