中巻できました。

 藤原道綱の母は、息子だけは、息子を思うと、息子は息子はと相当にうるさい!息子の恋文を全て見て添削なんかしちゃうんだから今の感覚だとあきれ返るのですが、文学が即座に政治力と結びつく時代のお話なのでした。

 

 今西祐一郎「蜻蛉日記覚書」からの抜粋です。

 

「『蜻蛉日記』上巻が兼家の詠草筆録という役割を帯びていたとすれば、道綱母は、「家の女性」でありながら、しかし摂関家有力者兼家の私家集的なるものの編纂という役目を担うことによって、摂関家文壇に関与していたことになる。」

「道隆や道長の父兼家の周辺には、その才気あふれる磊落な姿を仮名文で伝える役目を担う、清少納言や紫式部のような女房はいなかった。しかし、読者は『蜻蛉日記』の中に、後に太政大臣へと登る兼家の、『枕草子』や『紫式部日記』だったら記されなかったであろう、道綱母との贈答、愛人騒動といった若き日の天下人の素顔を、また伊尹『とよかげ』や兼通『本院侍従集』が正面から描かなかった官位の不遇や帝の代替わりによる栄達の姿などを読むことができる。

 すでに天下人と成りおおせた道隆、道長の姿を伝えることを役目とする『枕草子』、『紫式部日記』と、若き日の色好みとしての姿を伝える伊尹『とよかげ』、兼通『本院侍従集』、その双方の役割を『蜻蛉日記』はあわせ備えている。そして文学史としてみれば、『蜻蛉日記』は、摂関家における「家集」から「女房日記」へという文事の推移・変質の、その最中に位置して、両者橋渡しの役目を果たしているのであった。」


 

 息子・道綱はこんな男


 天禄元年12月(970年1月)従五位下に叙爵。のち、右馬助・左衛門佐・左近衛少将と武官を歴任するが、正妻腹の異母兄弟である道隆・道兼・道長らに比べて昇進は大きく遅れた。寛和2年(986年)の花山天皇を出家・退位させた寛和の変では、長兄・道隆と共に清涼殿から三種の神器を運び出すなど父・兼家の摂政就任に貢献。変から1年半ほどの間に正五位下から従三位にまで一挙に昇進し、公卿に列した。その後、異母弟の道長とは親しかった(妻同士が姉妹で相婿)こともあって、長徳元年(995年)道長が執政となると、その権勢の恩恵を受け、長徳2年(996年)中納言、長徳3年(997年)大納言と急速に昇進した。