前後の状況を覚えていないのだが、以前、教会の人に大音痴のCDをいただいたことがあり、
「この音痴の大会というのが、アメリカでは人気があるそうな。」
というのを聞き、家で ”夜の女王” を聴いてみて、ただ呆然として脳味噌が止まったことがあった。真剣に歌っていることだけは伝わるので笑おうにも笑えなかったのでした。
『広辞苑』によれば「音痴」というのは「生理的欠陥によって正しい音の認識と記憶が発生できないこと」と、病気扱いなのだが、鈴木慎一は ”人は環境の子なり” といい、また幼児教育の立場から言っても、楽器の演奏できる音痴はいないのだと知っているので、何とも不思議でなりません。
この映画のモデルとなったフローレンス・フォスター・ジェンキンスは、カーネギーホールでリサイタルを開いたこともあり、映画館には輸入盤のCDが2種類も揃えてあって、まだ売れているということらしい。
誰が聴いても音痴なのに、誰からも愛された "ソプラノ歌手" だったそうである。映画は、もう少し深刻な話になっていた。
妻のしていることが恥ずかしくてたまらない夫は、妻が歌う時には "ポンコツ車" のせいにしていつも遅刻をし、感性が理解できないといって別の女と浮気を続けていたのだが、いざいざ皆が妻を侮辱し、玩具にしているのを知ると、妻の誇りを守ろうとして自分の見栄や体裁を捨てる。誰にも音痴だと言わせないばかりか、最後には録音盤を聞かせて本人に自覚させようとする医者の計画を中止させようとする。
主人公は、オペラの感動を多くの人々に伝えたいと必死になって笑われるだけなのに、その夫婦愛自体が壮大なオペラになって観客の胸を打つのだった。
感心したのは、プロの歌唱力。映画全編に出てくるアリアの数々も聞きごたえがあったが、何といってもあの音痴の吹き替えはプロの業だ。
知っている曲をあんなふうに音痴に歌うのは、プロの音楽家にしかできないことだ。
腹があったのは、登場人物の各人の執事のゆがんだ愛情で、自分の趣味である夫人の写真撮影の "最後の一枚" が欲しいために、音痴を自覚させる計画を中止せよという夫の命令を医者に伝えない。録音された声を聴いて夫人が気を失い、かけつけた男が抱きかかえて悲嘆にくれるという場面でパチリ。これでオペラが完結というEnding.
舞台を1920年代のフランスに移しての大創作。まあ、よくできていました。
主演はカトリーヌ・フロ。
"伝説の音痴" と呼ばれた "実在の歌姫" から生まれた "人生オペラ"
☆でもね、音痴の歌で人を感動させることは絶対に無理だよね。
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