神宿る海の正倉院 沖ノ島写真展 by 藤原新也

 

 宗像大社の特別許可を得て、禊の後に撮影に挑んだ藤原新也の写真展。

 

 女人禁制の上、島の一木一草持ち帰ってはならぬという神の島。

 

「私が見た物と同じ物を皆さんにもお見せしたい。」

 と、デパートの催事場の床から天井までの大写真。

 

 撮影に立ち会った宗像神社の学芸員は、いつしか正座で見守ったという。

 

 会場は、「ご自由に写真をお撮り下さい。」とあって、皆、写真を写真に撮っているのだが、その光景に全く違和感がなかった。

 

 島から出土した約8万点ものご神宝(銅鏡、翡翠の勾玉、純金の指輪、ササン朝ペルシアのカットグラス)よりも何よりも、巨岩や、人間に踏まれるのを拒絶しているかのような渡り石や、社の雰囲気に大和朝廷の国家祭祀が思われて実に不思議な感覚に陥った。

 

 福岡県、玄界灘に浮かぶたった周囲4kmの孤島。今でも毎日、宗像神社の神職がたったひとりで祝詞をあげているという。

 

 そんな場所をユネスコが世界文化遺産に登録したというのだが、係の人たちは海で禊をして上陸したのだろうか。女人禁制の場所に、外国人なんか上陸させたのだろうか。

 

 藤原は「呼吸を止めて、弓道の矢を放つように集中して撮影していた」らしい。

 

 ビデオ映像の中で藤原が、おもしろいことを言っていた。

 

「人間は最初に産声をあげた時、吸い込んだ空気の90%を吐き出すが10%は肺の中に残る。ふた呼吸めもまた90%吐き出すが、10%は残る。そうやって残った空気は、どんどん入れ代わって、最初の呼吸の分は、どんどん薄くなってはいくが、死ぬまでなくなることはない。沖の島というのは、その最初のひと呼吸の、肺の中に残存しているようなものだ。」

 だって。

 

 ネットで自己がたやすく拡散してしまうような時代に、内に向かって圧を高めるような感覚なのだろう。

 

 中高の先生方は、こういう展覧会を宿題に出してくれればいいのに。