神とのコラボについて

 

 教会読書会では、John Dominic Crossan(ジョン・ドミニク・クロッサン)を読み終えたところなのだが、このテキスト(The Power of Parable たとえの力)の中で、collaboration(コラボ)という言葉がよく顔を出し、先生は”協働”と訳された。

 

われらなくして神なく、神なくしてわれらあり得ず聖書の全てのたとえは参加型教育である。イエスは参加型、または協働型の終末思想を宣告して、神の国は神による一方的介入行為ではなく、神と人間の協働による双方的行為であると告知した(デスモンド・ツツ)」

 

「イエスの史的生涯の力は、少なくとも一人の人間が神と十分に協働できたという証明で、信奉者たちに挑んだ。エミリ・ディキンスンは、『灰があることは火があったこと』と書いた。かつて火があったのなら、またあるかもしれない」 ああ、本当に良い話だった…。

 

 という内容を読み終えた途端、一人が「私、Emily Dickinson の映画を見て来たばかりなの。岩波ホールで今、やっているの。混んでいませんよ。」と発言したので、その流れで岩波ホールへ。

 

 驚いたのは、おそらく一語も逃さずにdictationできると思われるスピードでの正しい発音。

(テレビ・ドラマでも70年代の『刑事コジャック』までは何とか聞き取れるが、今のアメリカ・ドラマなんか、半分も聞き取れないスピードで話すものねェ。)

 

 しかし、映画自体は何の魅力もありませんでした。生涯のほとんどを生家から出ずに過ごし、詩作にふけるなんて…これじゃ神さまは愛してくれなかったでしょうよ。人は神とコラボして生きて楽しまなくっちゃねェ。