2015年

9月

28日

映画 Kingsman を見る

 歌姫からメールが来て、「とっても面白かったので是非」というので見に行く。

 連休で混んでいるとイヤだなあ~と、インターネットで予約して行ったのだが、座っていると「その席、私のですが…」と言われ、チケットをよく見てみれば、翌日のチケットだった!!

 満席になった時点でインターネットの画面は自動的に翌日のものに切り替わるのだそうな。

 …とはいえ、既にモギられちゃってるし、係員に申し出たら、同じメにあった中年カップルがいた。「では、こちらにどうぞ。」と案内されたのが車椅子席(4席ある)で、満席の映画館で隣が空席という超ラッキー!!

 イギリス人のユーモアってば…!!という感想。歌姫ってホント、性格いいわ!という感想。三石は春画展を「とっても良いので見に行って」と勧めることは何でもないが、Kingsmanを「とっても面白かったので是非」とは恥ずかしくて言えない。そういう意味でメタホドスで紹介しなかった物は相当ある。

 この映画、相当にイヤらしいです。

 最後に人間の頭がひとつひとつ爆発して花火のように打ち上がって行くのは、イギリス人のユーモア。絶対に起こらない絵空事なのでユーモア。これが毎日ドンパチやっているアメリカ人が見たら、とてもイギリス人のようにワハハ…とは笑えないだろうな。(B.G.M.は”威風堂々”)

 面白かったのは、スパイとして養成される若者が犬を飼わされて、その名がJ.B.

指導官が「ジェームス・ボンドか?」と訊くと、「いや、ジャック・バウアー」だって。教官は「そうか…」とションボリした。思わず笑い声が出た。


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2015年

6月

06日

更級日記 kindle版

 お待たせしました…(って、誰も待っていなかったでしょうが)

 

 世の中には『更級日記』をライフ・ワークにする男もいるんだよ。とっても不思議。

 これは高校生が試験の時に使って下さいな。

 今、『百人一首』をやってるからお待ち下さいね。

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2015年

5月

25日

HOUSE of CARDS

 安倍総理が冗談で、

「麻生さんには見せたくない」

 と言ったドラマだと聞いて見始め、何度も何度も中断(というか挫折)して、やっと見終える。

 こんなに主人公に一点の感情移入もできない、というよりできればすれ違うのさえ憚れるような人物もないものだと思いながら、いらいら、ぐずぐずと見ていたのだが、最後の最後の場面で、自分でもどうしようもないほど感激してしまった。

 きっと後世に名を残す大統領になるのだろうと思った。

 回転が早く、スキがない。あれに夢中で、これを見損なうということがない。

 昔、田舎の高校生だった頃、”外見より中身だ”と言われていた時分、そんなことを言う先生に対して、

「田舎者め!世の中には両方そろっている人が五万といるのだから、女子高生に外見の価値観を否定しちゃだめだ!」

 と、心の中で悪態をついていたのだが、何だかそれと似た感情が湧き上がって来た。

 権謀術数を用い、上昇志向が強く、名誉欲と権力欲がある主人公は、それと同程度かあるいはそれ以上の政治能力があるに違いないと思わせる。

 この夫婦の関係も私には実に魅力的で、我ながら“病んでいるのかもしれない”と思ってしまった。

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2015年

5月

11日

Bunkamura ザ・ミュージアム ボッティチェリとルネサンス展

 ボッティチェリの絵は、別にどうでもいいのだけれど(一定の興味関心以上の物は全くない)メディチ家の財力と権力に圧倒された。

 フィレンツェには何度も行ったし、実際にその豪華絢爛ぶりも見ているのだが、きちんと解説されると財力に胸を打たれる。

 教会から禁じられていた金融、銀行業での巨万の富を蓄え、窮極のマネー・ロンダリングとして教会の聖画などを描かせて寄附するということだったのですねえ。

 ヨーロッパ各地に置いた銀行の支店を利用し、芸術家達を次々に発掘したばかりでなく、各地の音楽まで収集していた道楽ぶりを見ると、腐るほどの財力の中でしか生まれも育ちもしない人材というものがあるのだとつくづく思う。メディチ家も、好き放題の権力を手に入れて芸術三昧にふけったのは孫のロレンツォだし。

     ↑

 こんな御殿での受胎告知…って素敵!!

 聖書じゃなく、ギリシャ神話をテーマにしなさいよね、と思っていたけれど、目的がマネー・ロンダリングなのだからしょうがない。

 東大寺の大仏再建立のために勧進に歩いた僧達を思うと、一目こんなの見せてやりたいものだ。

 ボッティチェリの作品は17点、その他の彫刻や工芸品、また例の金泥楽譜など80点も集合してます。

 渋谷じゃなくて、上野でやれ!と思いましたよ。

 きっとみんな見逃すんだろうな。

 あ、メディチ家は、ローマ法王まで出して(金持ちが何が悲しくて法皇に?)その庇護まで受けるようになるのだが、滅んだ原因というのも清貧を訴える革命僧だったのです。

 ヤツは(名前を忘れた)贅沢だと言って、ボッティチェリの作品をいくつも火にくべたらしい。

 いつの時代にもいるんですね。そういうわけのわからんヤツ。


         渋谷の文化村です。 ¥1,500ー


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2015年

4月

27日

映画『博士と彼女のセオリー』

 原題は Theory of everything なのに、邦題はなぜ ”博士と彼女の” という限定になったのだろう。

 昔からホーキング博士は大好きだった。

 文句なく、生きる意欲と、それを支える脳に感動するからである。

 20代で、後2年と宣告された命が、その後結婚して、子供は3人。現在は73才になった。

 最後の場面で、博士が、

「Where there is a life, there is a hope.」

 と言ったが、いや、それは逆でしょう。

 車椅子になって話せなくなってからも、妻以外の女性を求めた能力に脱帽します。

 同じ病人なら、こんな病人になりたいことだ。

 博士、いつまでもお元気で。人類の科学のために。

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2015年

4月

06日

根津美術館へ

 御招待券を頂きホイホイと出かけました。良かったよ。

 どういうわけか、昔からブツが大好きで、当然のことながら、仏教のパラレル・ワールドにも心ひかれています。

 根津美術館の”菩薩”の説明に「菩薩とは、悟りを得たにもかかわらず、あえて人間界に降りて、人間の苦楽に向き合い、救済の手をさしのべる仏のこと」とあった。

 おい、それは違うだろう。いや、そういう解釈もあるのだろうか。そうすると随分と意味が違ってくるぞ。やっぱり、それは駄目でしょうよ。

  仏には格というものがあって、一番上が”如来にょらい”。

 如来の中のトップは釈迦如来だと思いがちですが、そうではない。釈迦というのは、この地球上の如来にすぎず、お星さまはいくつもあって、それぞれの星(世界)に、それぞれの釈迦の役目を果たす如来がいるのです。これが仏教のパラレル・ワールド。その如来の中の如来、いわば king of kings が大日如来であります。

 如来というのは悟りを得た後の段階なのですが、菩薩は、まだ悟りに至ってはいないのです。但し、必ず悟りを得て、如来になることが決まっている物のこと。仏像を見る時には、イヤリング、ネックレス、ブレスレッドなどの装飾品があるのは、まだ菩薩で、悟りを開いた如来は、そんなものを身につけてはいないのです。だが、これが仏教のおもしろいところで、如来の中の如来、最も尊い如来の大日如来には装飾品が有る。わが身を飾ろうが飾るまいが関係ないほど偉いので飾るのです。

 

 まあ、「いつでも如来になれる身でありながら、馬鹿な衆生のために、人間界にとどまって、ひとりだけ悟って抜け出ることを、あえて放棄している仏」という説明が妥当と思います。東洋哲学科卒の三石でした!

 

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2015年

3月

30日

敢えて一言、もの申す

 千葉県の高校教師が、学校内にいた(生まれた)仔猫を生き埋めにした事件について、敢えて一言述べたくて書くことにした。

 この話をテレビ・ニュースの報道で初めて聞いた時、あまり関心も持たなかったのだが、あまりにもこの教師に対する非難ばかりが集中して強調されるので、やはり首をかしげたくなったのである。

 ご存知の通り、私は愛猫家である。猫ほど好きな動物は、この世に存在しない。だが、この事件についての世間の反応は、あまりにもヒステリックであり、どこかがおかしい。そう思う私は、現代の大方の感覚とずれているのだろうか。

 世の中に野良犬は存在しないが、野良猫はあちこちにいる。飼い主のいない犬は存在しない(してはいけない)ので、他人の犬を傷つければ刑事罰が下る。だが、猫は違うのだ。

 子供の頃、田舎では春先にもなれば、猫の子はビチビチと生まれた。野良猫はもちろんだが、飼い猫でも無計画に生まれた。そんな時は、生まれた瞬間に穴を掘って埋めるのである。それが当然の行為であった。

 少しでも間を置けば、愛情が移るので、生まれてすぐに始末するのである。時期を逃して始末をしそこねると、もらい手を捜すのに大いに苦労をする。そうなってから初めて、あるいは山に捨てに行き、あるいは川に捨てに行くのだが、どちらの場合でも、すぐに生き埋めにした時よりも心ははるかに痛むのである。

 ちょっと田舎の人に訊いてごらんなさい。直ちに生き埋めにすることこそが「正当な対処法」だと知っていますから。

 件の高校教師は、

「他に始末の仕方がわからなかった」

 と言い、それをもって世間の非難が集中したが、その教師の言う「他に始末の仕方がわからなかった」は、たぶん「その方法を知っていた」「そういうものだと認識していた」という意味であろうと思う。

 テレビのコメンテイター達が、

「今までにも、していたかもしれませんね」

 と言ったのが、ちゃんちゃらおかしかった。

 していたに決まっているのだ。それが方法だからである。動物愛護協会が、

「私達に相談してくれさえすれば。」

 って冗談ではありませんよ。田舎にはそんなものはありません。

 また、都会の愛護協会だって、貰い手のない猫は、その後「始末」するではありませんか。少し大きくしてからのガス室の方が、生き埋めよりも良いという理由は何か。そんなものはありません。

「命の大切さ、尊さを教えなければならない教育の現場で。」

 って笑わせてはいけませんよ。

 教えなければならないのは、生まれたての野良猫の命の「尊さ」なんかではない。

「畜生」と「人間」との決定的な違いなのです。

 猫の命を教材にしてでも、人の命の尊さを教えなければならないのです。こんなふうに「生き埋め」にされる仔猫とは、決定的に違うのがお前達の命であると、教えなければならないのが教師なのです。

 動物を「飼う」ということは、どういうことなのか。それならば「飼わない」というのは、どういうことか。子供達は知らなければならない。

 学校側は、保護者に対して説明会を開くと言う。

 どんな説明をするつもりなのか。毅然として、この教師が決して命を軽んじるような男(女?)ではないことを説明して欲しい。謝ってなんかほしくないぞ。

 私に言わせれば、鯨を食べる日本人に対してヒステリックに攻撃しているどこかの国の団体と、どこが違うのだと言いたい。中国では猫を食べますよ。犬だって食べますよ。私は食べましたよ。おいしかったですよ。

 私は、人後に落ちぬ愛猫家である。


(三石由起子)

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2015年

3月

16日

久しぶりの生演奏

 玄一さんのチェロを聞きに行く。

 クラシック音楽を日本人の身近な娯楽にしたいという玄一さんの願いが叶いつつあって、テレビ番組になりました。

 そのメンバーのコンサートで、いそいそとJTホールへ。(ここはいまだにホールに灰皿があります。)

 プログラムは、本物のクラシック初心者が楽しめるように配慮され、玄一さんのトークも楽しみのひとつなのですが、時々、わからんことをいう。

「ベートーヴェンは、”嫌になって死んだ”ですから、時代的には…。」

 と玄一さんが話していると、後ろの席のご婦人方が、

「何を嫌になって死んだのかしら。」

 と言う声が聞こえた。

 玄一さんは、ベートーヴェンの没年を1827(イヤニナ)って死んだ、と言っただけなのですが、やはり音楽家の常識はいきなり何気なく話されても困る人もいるのでしょう。

 バッハに素晴らしいテーマを与えた”フレデリック大王”の話になって、司会者と、

「あのジャガイモの?」

「ええ、じゃがいもの。」

 …って、何のことだよ?

 家に帰って早速、”フレデリック大王 じゃがいも” で検索。

 ほお、そうでしたか。


 フリードリヒ大王(フレデリック2世)

 ドイツで初めてじゃがいもが栽培されたのは1947年。

 宮廷庭師ミヒャエル・ハンフと宮廷植物学者ヨハン・ジギスムンド・エルスホルツによってオランダ庭園に倣って作られた観賞用の植物だったそうだ。

 その観賞用のじゃがいもを食用として広めたのがフリードリヒ大王を代表するドイツ・プロセインの大王だった。


 大王の”じゃがいも宣伝”は、”出征宣伝”と同じくらい有名だとあるが、どっちも知らんよ。

 7年戦争での兵士達の空腹を満たすことと戦後の食糧難の解決に役立ったらしい。

 この”じゃがいも宣伝”は、ベルリン一帯に栽培したじゃがいもを兵士に警備させて、農民達にその高価さ、貴重さを宣伝すること、また、兵士には「あまり厳重に警備をするな」と命じて、兵士の目を盗んでじゃがいもを盗ませ、自分達でこっそりと栽培させるというものだったそうな。食べるように勧めても、ドイツの農民は知らない食べ物は口にしないという習慣があったので逆手にとったものだったそうな。

 この思惑は見事に的中したらしい。本格的な栽培が始まったのは19世紀で、現在では50種類もあるんだそうな。

 人間の知識は一度得てしまえば“常識”になりますから、今度誰かが「フレデリック大王が…」と言いさした時には、

「ああ、あのじゃがいものね、」

 と反応できるというもの。

 めでたし、めでたし。


フリードリッヒ2世(1712~1786)

バッハ      (1685~1750)

ベートーヴェン  (1770~1827)

                 ↑

                嫌になって死んだ…です

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2015年

2月

10日

中島みゆき ライヴ・ビューイング

 ライヴ・ビューイングを一人で見に行く。

 マイクのダミ声を一度ちゃんと聞いてみたいと思っていたのは、時々、彼女の歌詞が妙にひっかかる覚えがあったからだ。

 だがこれはおいしい中華料理屋で三石が紹興酒をカパカパ飲んだからといって、紹興酒をプレゼントしてもらっても、何年も台所に放置してあるようなもので、決して中島みゆきのCDなど贈って下さるな。一生ききません。

 歌詞をよくよく聞いてみたら、縮尺と遠近法がホントに変で、それで印象に残ったのだな。

 空と君の間に雨が降る。天と地ではなく空と君。砂の中の銀河。

 想像は舞い上がればいいんか、地底に沈めばいいのか。

 高く飛ぶ燕に、空から地球という星を見せるというのだから。

 ただ、聞き取れない言葉もいくつもあった。

 う~ん、何だか惜しいな。

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2015年

1月

05日

新年明けましておめでとうございます

 今年は正月のRugbyがなく、駅伝の応援に箱根に行きました。

 ロマンスカーで新宿到着後、そのまま瀬古さんの慰労会へ。

 乾杯の音頭の第一声は、

「青山学院に敬意を表す」

 で、ございました。


 瀬古、

「青山学院は、チャラ山学院と呼ばれ、あそこには男はいなかった。

 渋谷で、女を連れて歩いているのは皆、チャラ山の男だった。

 だが創部10年にして、この快挙である。10年の努力というのはこういうものだ。

 一方、駄目になる方は、2年で駄目になる。

 駅伝はこのところ山登りを制するところが優勝している。

 だが、それが駅伝だろうか。

 私は2区をもくもくと走る選手こそ評価したい。

 5区の山登りのスターを作ろうとしている大学を評価しない。」


 今年の青山が強いとは聞いていたが、これほど強いとは思わなかった。

 鬼のように強かった。

 5区を出迎え、6区を送ったが、6区の三浦を応援するのと同じくらい、皆、青学を応援していた。

 大学駅伝、おもしろくなって来ましたね。

 6区で青学が出発してから、2位までの間、三石は悠々と煙草を1本吸えてしまった。

 神ちゃんは、きっと God と呼ばれることでしょう。

 

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