2017年
1月
31日
火
マーティン・スコセッシの『沈黙』を見て考えたこと
私の好きな言葉に
「人は過去を塗り替えることができる」
というのがある。
どこで聞いた誰の言葉だったかは忘れてしまった。
私にはやり直したい過去はないし、過去に戻ったとしても同じことを選択する、と言い続けて来たのだが、その理由の一つは「絶対に過去は変えられない」という真理がある。だが、「過去は変えられる」という確信もまた、現在の私の力になっているのである。
過去に起きた事象を変えることは当然できないのだが、その事象の意味を変えることは可能であり、変える力は過去にではなく、現在と未来にあるということだ。
分かりやすい例を挙げれば「不良の馬鹿息子」が、「偉大な小説家」に化けるようなものである。
過去のまま終われば、ただの「馬鹿息子」が、現在の努力によって将来は「偉大な小説家」になるとする。そうすると、他人はまず、「小さい時から、文学の素質があった」「独特の思考回路があった」と、過去の事象の記憶を塗り替え始めるのである。そうなれば、必然的に本人の中でも、そういう認知が進んで過去の自己肯定に至る。そのままでは到底、自分では肯定できない過去の自分を、意味を置き換えることによって、記憶を塗り替えて、自己肯定の高みに登れるというわけなのだ。私には塗り替えるべき過去はあっても、恥ずべき過去はないのだというのが、私の自己肯定の大半を占めている。
さて、沈黙である。私がこの作品の登場人物で興味があるのは、まずはキチジローであり、次には井上様である。
キチジローが、
「この俺(おい)は転び者だとも。だとて一昔前に生まれ合わせていたならば、善かあ切支丹としてハライソ(=天国)に参ったかも知れん。こげんに転び者よと信徒衆に蔑(みこな)されずにすんだでありましょうに。近世の時に生まれあわされたばっかりに…恨めしか。俺は恨めしか。」
は、切ない。イエスが招く最良の弱者・キチジローの姿である。
筑後守・井上は、もう少し知的なクリスチャンであった。
棄教した神父・フェレイラが主人公の司祭に踏み絵を勧める時の、
「さあ。今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ。」
というセリフもクリスチャンのものだ。もし、イエスがここにいたら、きっと踏み絵を踏むに違いないというのも単に「悪魔のささやき」とは言えない。
(イエスはものの軽重が分かるフレキシブルな男である。因みに三石は洗礼を受けた時、牧師から「踏み絵は踏んで良い」という許可を得ている。ワハハ。)
キチジローは、
「じゃが、俺にゃあ俺の言い分があっと。踏み絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏み絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの脚は痛か。痛かよオ。俺を弱か者に生まれさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい。」
と言う。こんな男をこそイエスは招いたであろう。
キチジローは、物語の中で徹頭徹尾クリスチャンである。主人公のロドリゴも棄教してからも死ぬまでクリスチャンであった。私に言わせれば井上もクリスチャンである。信仰は他人が認めるものではない。本人の心の中だけにあるものだ。
映画で「可」という評価を付けた理由は、スコセッシが、ロドリゴの信仰だけを認める解釈をしているからである。「日本教キリスト派」の概念がすっぽりと無い。
本当に余計だと思ったのは、仏教の坊主を呼び、戒名を付け、仏教式の葬儀の後、火葬され、棺桶の中が写される。その胸には日本人の妻の手でこっそりと入れられた十字架があった。これ、ダメでしょ。ロドリゴは信仰の形を変えたのだ。新しい形で神の愛を教え、人々に布教する方法を棄教という形式の後に手に入れたのだと信じるからだ。
最大のテーマは「神は沈黙していたのではない。神は一緒に苦しんでおられたのだ。」に、尽きると思う。キチジローと共に苦しみ、井上と共に苦しんでいるのである。
浅野忠信を始め、日本人スタッフの英語が堪能なことに驚き、時代を感じた。
考えてみれば、オペラ歌手は何語の歌だろうが歌うのだから、役者がそれを出来ない筈はなかったのだけれども。