2016年

12月

09日

映画『聖の青春』

 

 棋士・村山聖の実話物語。

 

 「どうだった?」と訊かれたが、何せ暗い苦しい話なので、「見てくれば?」とは勧められなかった。

 

 羽生との対局を見ていた人が、

「あんな息苦しい所には一分もいられない」

 と言っていたが、スクリーンのこっち側まで息苦しかった。

 

 松山ケンイチは歩き方まで実物にそっくりで胸を打つ。

 Death Note であんなにガリガリのLをやっていた同じ男だと思うと、役者というのは凄いな。

 

 原作が『聖の青春』なので仕方ないのだが、青春しかなかった人間の人生に ”青春” というのはあんまりだという気がした。

 <名人になって引退してゆっくりする>のが夢だと語るのが苦しかった。

 

 怠け者の話に、

「なぜ、そうあくせく働く?」「金をためるため」

「金をためてどうする?」  「ゆっくりする」

「じゃ、今の俺と同じだな…」

 というのがあるが、人が生きるとはどういうことなのか、ただ迫力だけを感じた。

 

 村山聖はたとえ健康体に生まれていても破滅型の人間なのだろう。

 酒と女とギャンブルに生命をすり減らしたのだろうと思う。

 

 人が生命を生き切るというのはどういうことなのか。

 破滅型などと呼ぶのは他人だけで、生き切るにも天賦の才があるのかもしれない。

 汚さ(不潔)までが凄味になっていた。

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2016年

11月

14日

映画『永い言い訳』

 

 本木雅弘の久しぶりの主演映画だというので『永い言い訳』を見て来た。

 

 これはね、文字で読むべきお話であって、映画で見るお話じゃないなあ。

 

 現代風だと思ったのは、

「子育てって、男の言い訳になるんだよ。」

 というセリフ。

 

 一世代前の男は、自分の存在意義について頼りなく思った時に” 子育てに逃れる ”という選択肢はなかったし、発想としても思い浮かばなかったことだろう。

 

 子供がいない、子供を持とうとも思ったことのない主人公・本木くんが、突然の事故で妻に死なれ、悲しみさえ感じられないという identity の失い方をした時に、全く知らない子供達の世話をすることになる。

 

 それはその場逃れの言い訳、自分の中での演技、およそ暇つぶしのようなものなのだが、自己というものが、実生活の無価値とも思える日常の中で形成されていく。身体のすることに序々に心がついていく。

 

 共感するが食い足りない映画だった。やはり原作を読みたい。

 

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2016年

10月

17日

映画『怒り』を見る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 是非見るようにと、同期の仲間にすすめられて、時間をつくって池袋のサンシャインに自転車で行く。

 

 いきなり血とベッドシーンが続き、ちょっと待ってくれ!最後まで見ますけれども、ちょっと休みたい。ああ これがDVDなら、好きな時に止めて休めるのにな、と思っていたら、いきなり映画の画面が切れて屋内が明るくなり、係の人が出て来て

「申し訳ありません。原因不明の停電です。そのままお待ち下さい」

 と言う。室内が明るくなって「停電です」もないもんだと思っていたが、これが例のさいたま停電で西武線は運休となったアレだった。

 

 というわけで、およそ15分の休憩のあと、気を取り直しての映画鑑賞となったのだった…私ってやっぱりダビデね。

 

 いや、ちょっと頭を抱えるような話ではありましたが、一言で言えば私には関係ないわ。非難をしようとは思わないが、所詮、他人を信じるということは自分の力量の問題であり、自分に誇りを持ち、自分を信じられない人間には他人を信じることは難しいのだろう。他人の人格に対するコメントは、自分の人格をそのまま映し出すことになるので、こりゃ大変なことだ、などと思いながら、本屋に寄って、文庫本で『怒り』の上、下を買って読み出す。

 

 映画とはずいぶん雰囲気が違っている。なかなか良い。小説というのはテーマがあり、材料はその手段に過ぎないのだが映画は材料が前面に出てしまうので、つらいこともありますね。

 

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2016年

9月

26日

携帯電話を買いに行く

 

老後の準備は携帯から

 

  このところ、2回に一度くらい、使うたびに、ICチップがどうじゃら、こうじゃらという表示が出てイライラし、いよいよ寿命と諦めて au の早稲田ショップに飛んで行きました。

 

 i phone の7が発売されたばかりで、新機種を求める人の中、

 

「これからは2度と手に入らないガラ携が欲しい。」

 

 と注文。今まで使っていた携帯のデータを新しいのに移してもらうため、16Gのチップを5000円以上で買い、

(これも一つしか残っていなかった。今はみな32Gだそうである。ちなみに今まで使っていたのは1Gである。)

 

「7年半、使っていますね。」

 

 の店員の言葉に自分でも驚く。

 

 今から年はとるし、i pad を持っているから、

 

「スケジュール管理と、メールの送受信と、電話は1ヶ月で30分話せればいいです。」

 

 と言って、手にしたのは、 au KYF32というカンタンケータイ。

(迷子になりそうな年寄りが孫に買ってもらって持たされるヤツ。)

 

 待ち受け画面に万歩計が付いているので、東海道五十三次に設定して、今、日本橋から品川を目指して歩いてます。

 

 オプションで「一歩も歩かなかった時、あるいは電源を時間までに入れなかった時に、誰かに通知しますか?」というのがあった。手厚いね。

 

 一番嬉しかったのは取扱説明書の見やすく、わかりやすく、文章の簡潔さ。

 はい、はい。みんな理解できるもんね…って、当たり前か。

 

 時代を感じたのは、古い携帯からデータを移してもらう時、(再三拒まれたが拝み倒しました)何枚も何枚も承諾書を書かされたこと。

 色々な事件が起きているからねェ。何年使えるかな?

 

 …と、携帯を手にしたのが、18日の日曜日。

 

 私は歩くスピードも人よりはずっと速いし、相応な健脚家だと自負していたのだが、驚いたことに、この一週間は授業と自分の勉強だけで、(一番の ”遠出” は、近所の教会読書会と銀行、郵便局程度)夜眠る前に歩数計を見てみると300歩なんて日もあった。

 

 日本橋から品川までの遠いこと、遠いこと。6日めの金曜日が終わった時に、品川までの旅程が3.5kmくらいだったのだ。

 これには自分でびっくり…。こんな不健康なこと…。

 

 ところが7日めの土曜日、渋谷のセルリアン・タワーまで狂言を見に出かけ、戻ってくると、いつの間にか品川を通り過ぎていた。

 

 夕方からは総会でかけまわり、2次会の会場まで行き(例によっておネムになって中座しましたが)その夜寝る前に見てみると、1日で6.7km、11249歩歩いていたのでした。

 

 1日に6.7km歩いても、累計を見れば10.5kmしか歩いていないということが判明したのでした。ものすごくびっくりしました!!

 

 夕方からの総会では、 au のYさんが

 

「スマホにはストラップを使わないから、もうないでしょうから。」

 

 と、リスモのストラップを一生分持って来てくれたのでした。

 

 最近、財布や鍵束や携帯、ありとあらゆる物をストラップで鞄につなぎ、笑っちゃうくらい、ズルズルとやって安心しているので、同期の労わりが身にしみたことでした。

 

 会社人間が会社に通わなくなり、駅の階段も乗り換えも日常生活から遠くなり、ホイホイ遊びまわる性格ではないとすると、老化は早くなるだろうなと実感した。

 ご要心、ご要心。

 

 

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2016年

9月

20日

映画 君の名は

 

 ニッポン放送の収録で、ディレクターやスタッフの3人が『シン・ゴジラ』が良かったという話で盛り上がり、(もちろん三石もその一人ですが)、他の3人が『君の名は』が良かったという話で盛り上がっていた。

 

 ディレクターが

「『シン・ゴジラ』を見るくらいなら『君の名は』を見るように勧められたので見て来た。良かった。」

 というので、

「そう勧めた人は『シン・ゴジラ』を見たのか?」

 と訊いてみたら、「いや。」とのこと。

 結局、両方観た人はいなかったので、仕方なく私が見に行く。あ~あ。

 

 監督は長野県出身。しかも敬愛するS氏の出身校・野沢北高校の卒業ということで、かなりのシンパシーをもって好意的に見たのだが、

 

 もったいないというよりは、” 迎合した文学 " " 軽~く、薄~い荘子哲学 "。文学と哲学を諦めて、女子供に媚を売った堕落作品(こんなに本気で悪口を言うのは、生徒以外にはありません)でした。

 

 「糸をよる」「ひもを結ぶ」という言葉を中心にして、時間軸をずらすという哲学の概念をちょっとだけいじりながら、でも、小学生にも中学生にも、おねーちゃんにも" わかる "ようにさせたかったのか。それとも自分でもそれ以上書けなかったのか。

 

 30枚で挫折した意気込みだけはある短編を無理矢理読まされたような後味の悪さをどうしようもなかった。

 

 この映画で少しでも心をゆすぶられた人には、「まっとうな勉強をしてくれ!」と言いたい。

 

 TOHOの関係者情報では、今年一番の興行成績になるかもしれないとのこと。

 皆、軽~い哲学に飢えているのだろうか。

 

 それにしても、文学を諦めた男っていうのは、後味が悪いな。

最初から手を出すな!

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2016年

9月

12日

シン・ゴジラを見る!!

 ゴジラは昭和29年(1954年)の生まれで、私と同い年です。だからというわけではないけれど、大好き。

 

 1954年の映画を見た時には、あまりの文学性に驚き、素晴らしい反戦、反核の映画だと思った。オキシジェン・デストロイヤーを造りあげた片目の博士が格好良くて、可哀想で、彼を捨ててサルベージ船の若者に走った馬鹿女に腹を立てていた少女でした。

 

 今回のゴジラは、まずその強さに圧倒されてしまい、ついに来ましたか ”放射能熱” にあんぐり。

 

 東京に核兵器を落とすなんて発想、ひと昔前なら考えられませんでしたよ。

 

 やっぱり自衛隊は格好良い。ゴジラと自衛隊はセットですもんね。

 

 私はイージス艦にもおおすみにも戦車にも乗ったことがあり、航空自衛隊の観閲式や曲芸飛行も見たことがあるので、本当にリアリティーがあって、ワクワク。ドキドキした。

 

 もっとも映画が始まってすぐに、品川の家がゴジラにつぶされ、北品川の駅も木っ端微塵。みんな品川神社の階段に押し寄せるのを見て唖然。あーあ。

 

 ラストの主人公の「人類はゴジラと共に生きる道しかない。」に時代を感じました。ピカデリーで見終わってすぐ、もう一度IMAXで見て、3回目を見たい!!

                           今度は4Dで見るんだ…

 

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2016年

6月

13日

映画『殿、利息でござる!』

 

 『武士の家計簿』の磯田道史による『無私の日本人』の中の穀田屋十三郎の話が、またしても映画になったというので見に行く。阿部サダヲも気になるし…。

 

 磯田の作品は面白いのだけれども、自分の能力を越えて司馬遼太郎なみに歴史分析をしようとしているのがウルサイ!!文中で、そこはもういいから、あなたの話は聞かなくていいから、ストーリーを先に進めてちょうだいよ、と思うところが何ヵ所もある。

 

 映画はおもしろかった!大胆に、途中をバサバサ切ったり、膨らませて泣かせたり、うまいなあ、と感心。三石にはとてもできない決断がいくつもいくつもあって嘆息。

 原作には東北人の(仙台藩の)気質として書かれる粘り強さや楽天性や人の好さが、映画では、マンガみたいな好運に集約されていて退屈させない。

 

 殿様役のチョイ役で羽生結弦くんが登場。姿勢がいいからサマになっていました。

 本には(映画公開に伴って文庫本も発行された)穀田屋十三郎の他に荻生狙来の弟子となった中根東里(この人、知らなかったなあ…)や、大田垣蓮月が収録されていて、偉い日本人というのはいるもんだ!と、ちょっと嬉しい気持ちになります。

 

 中根東里の庵の壁に書かれていた言葉の中に

  出づる月を待つべし。散る花を追ふことなかれ。

 というのがあったそうで、いいねえ。

  水を飲んで楽しむ者あり。錦を着て憂ふる者あり。

 ごもっとも。

 

 映画の話に戻ると、貧乏な村を救うことに奔走した何人かが申し合わせの署名で「子々孫々、会合の時には下座にすわること」を決めたというのも面白かった。原作はちょっとニュアンスが違うけれども、大意は同じ。

 

 聖書には

 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。

                             (マタイ伝6-3)

 というのがある。私はこの翻訳(性格な直訳)がとても気に入っている。ちなみに英語の翻訳ではABSでも、イギリスのHarper Collinsでもちょっとおもしろくない。

 But when you help a needy person, do it in such a way that even your closest friend will not know about it.

 

 聖書というのは英語からの翻訳ではないので、日本語の訳の方が数段すぐれている場合がよくあるんです。

 

 右手のしていることを左手にも知らせるな…って、ちょっといいでしょ。そういう日本人が昔も今も大勢いることを忘れないようにね。

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2016年

5月

11日

映画『追憶の森』

 富士の樹海って本当にあんななのか…

 私は山の子なので、やっぱり山は怖い!!

 

 映画を見終わって是非原作を読みたいと思い、受付に並べられていた本を手にとったら、ノベライズされたものだった。あああ。脚本で見てみたかった。

 

 アメリカ人にも仏教徒というのは増えているし、日本人の死生観に共感する人達も、そうでなくても興味を持つ人達もいるとは知っていたが、ここまで来たか。

 アメリカ人もこういうこと(魂や霊の存在、spirit という単語を使っていた。やっぱりこの単語が一番ヘブライ語の ”息” に近いのだろう)に正面から向かうようになったのかと、ちょっと驚く。

 

 最初、アメリカ人に妻と娘の名前を聞かれて、渡辺謙が

「妻の名はキイロ。娘の名はフユ」

 と答える。おっと、さすがにアメリカ人の脚本だよ、などと思っていたのが大間違い。男は、妻の好きな色も好きな季節も知らずに死なれてしまった自分の人生を悔いての樹海入りだったのである。

 渡辺謙は、実は人間ではなくて、生と死との境に存在する樹海の霊のようなものだったのだと、映画の終わりに突然じーんと分かるのである。うまい脚本だなあと、ため息が出た。

 

 さすがにキリスト教徒の国だと思ったのは、男は死ぬ決心をして樹海に入ったのに、渡辺謙の「生きて出たい」という願いのためだけに、必死に出口を求めるという設定。他人を救いたいという一途な思いが、男に生への執着を蘇らせてゆく。

 

 そういえば津軽旅行の時、後輩が露天風呂で、「死生観と生き方とは、どう違うのか?」と言って来て、「生き方とうのは、一本の紐のように人生を捉えた場合の、初めと終わりがあるその途中の how to であり、死生観というのは紐ではなく輪状のものとして、生に続く死を想定してのことではないのか。」と、スッポンポンで答えたのだが、この映画でも同じようなことを思った。

 

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2016年

4月

11日

映画『アイリス・アプフェル 94才のニューヨーカー』を見に行きました。

  ドキュメンタリー・フィルムです。

 80才でデビューした94才のファッション・アイコン。

 若い頃から夫とふたりで旅をし、服やアクセサリーや家具、小物などを買いまくり、着まくって、ある時、それをメトロポリタン美術館で展示したら、みんながそのセンスにワーッと驚いた。

 夫は101才の誕生日直前に亡くなったが、「妻がドンドン金を使う」と、ヘラヘラしていました。いいねえ。

 テレビや雑誌の取材や、若い人への教育にヒーヒー言いながらも、

「重病じゃないなら自分を駆り立てて外へ出て、調子の悪さを忘れる。」

 のだそうな。世界で初めて、ジーンズをはいた女性だということです。

「美人じゃなくて良かった。美人は年をとると何にもなくなってしまう。」

 という彼女はニューヨーク大卒で、歴史も経済もファッションセンスには必要だと語る。さらに、

「ファッションセンスなどなくても、幸せならそれでいい。皆が好きな服を着るべきだと思うから。」

 だって。相当に格好いいよねえ。

「服も、アクセサリーも家具も、人間が物を所有することはできない。私にあずけられているだけ。だから次の人に渡す。」

 と、倉庫を整理する様子も感動的だった。私より33才年上ということは、辛い時代も経験して来ただろうに、こんなに楽しがっている最晩年のおばあちゃんに、ワクワク、ドキドキした。

「重いネックレスは、30分で帰れる日じゃないと使わない。」

 と言いながらも、ジャラジャラのキラキラだった。どこからどう見ても格好いい。広~い家と、たくさんの倉庫が、まるで博物館のようでした。

「値段交渉には美学がある。」そうな。

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2016年

3月

07日

映画 偉大なるマルグリット を見に行く。

 

 前後の状況を覚えていないのだが、以前、教会の人に大音痴のCDをいただいたことがあり、

「この音痴の大会というのが、アメリカでは人気があるそうな。」

 というのを聞き、家で ”夜の女王” を聴いてみて、ただ呆然として脳味噌が止まったことがあった。真剣に歌っていることだけは伝わるので笑おうにも笑えなかったのでした。

 『広辞苑』によれば「音痴」というのは「生理的欠陥によって正しい音の認識と記憶が発生できないこと」と、病気扱いなのだが、鈴木慎一は ”人は環境の子なり” といい、また幼児教育の立場から言っても、楽器の演奏できる音痴はいないのだと知っているので、何とも不思議でなりません。

 この映画のモデルとなったフローレンス・フォスター・ジェンキンスは、カーネギーホールでリサイタルを開いたこともあり、映画館には輸入盤のCDが2種類も揃えてあって、まだ売れているということらしい。

 誰が聴いても音痴なのに、誰からも愛された "ソプラノ歌手" だったそうである。映画は、もう少し深刻な話になっていた。

 妻のしていることが恥ずかしくてたまらない夫は、妻が歌う時には "ポンコツ車" のせいにしていつも遅刻をし、感性が理解できないといって別の女と浮気を続けていたのだが、いざいざ皆が妻を侮辱し、玩具にしているのを知ると、妻の誇りを守ろうとして自分の見栄や体裁を捨てる。誰にも音痴だと言わせないばかりか、最後には録音盤を聞かせて本人に自覚させようとする医者の計画を中止させようとする。

 主人公は、オペラの感動を多くの人々に伝えたいと必死になって笑われるだけなのに、その夫婦愛自体が壮大なオペラになって観客の胸を打つのだった。

 感心したのは、プロの歌唱力。映画全編に出てくるアリアの数々も聞きごたえがあったが、何といってもあの音痴の吹き替えはプロの業だ。

 知っている曲をあんなふうに音痴に歌うのは、プロの音楽家にしかできないことだ。

 腹があったのは、登場人物の各人の執事のゆがんだ愛情で、自分の趣味である夫人の写真撮影の "最後の一枚" が欲しいために、音痴を自覚させる計画を中止せよという夫の命令を医者に伝えない。録音された声を聴いて夫人が気を失い、かけつけた男が抱きかかえて悲嘆にくれるという場面でパチリ。これでオペラが完結というEnding.

 舞台を1920年代のフランスに移しての大創作。まあ、よくできていました。

 主演はカトリーヌ・フロ。

 "伝説の音痴" と呼ばれた "実在の歌姫" から生まれた "人生オペラ"

 ☆でもね、音痴の歌で人を感動させることは絶対に無理だよね。

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2016年

2月

08日

映画『最愛の子』を見る

 

 福山の『そして、父になる』は、悲しくて悲しくて、原因を作った看護婦に腹が立って、錯乱するほどの動揺を覚えたのだが、この映画は、実話とはいえ、現代中国の人買いや幼児誘拐が普通の事件だという社会性にどうしてもsimpathyを持つことができず、見ていて心がウロウロした。

 

 ラジオの収録終わりに映画を一本見て帰ろうとしていたのだが、ちょうどいい時間帯がこれだったので、頭を混乱させて帰る。

 誘拐直後から父はTVで、「息子は桃アレルギーだから、息子を買った人は、どうぞ桃を食べさせないで下さい。」と訴える。3年後に農村でやっと見つけた息子を奪い返すと、育ての母が、「桃アレルギーがあるから、桃を食べさせないで。」と言いすがる。

 まあ、どっちに同情するって、父親に同情するのだが、この育ての母は、死んだ夫に、「お前が不妊症だから、よその女に生ませた子」だと言い含められていたのだった。その夫は、誘拐児の妹に当たる女児(捨て子)も拾って来て妻に渡していた。せめて妹だけでも育てたいと、捨て子を証明してくれる男に身を投げ出して裁判で争っていると、やがて自分が妊娠していることに気づく。(病院の検査で知らされる。)女が泣き崩れて物語は終わり、心に傷を負った子供達と夫婦の現在がドキュメンタリー・フィルムで紹介される。

 こんなの、一体どうしたら、いいんじゃ!?”感動と絶賛”には程遠い気分でありました。

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