2014年

9月

29日

映画『アルゲリッチ』を見る

 すごい女だということはわかった。

 この映画は監督ステファニー・アルゲリッチの私小説だと思った。

 変な女を母親に持った娘の大いなる許しの物語であって、ピアニスト・アルゲリッチの映画ではない。

 最大限の優しさと読解力をもってしてもアルゲリッチの言葉は全くわからない。

 まるで、言語障害を持つ人間に哲学を語らせようとしているかのような映画だ。

 しかしステファニーの私小説ということで読解するなら80点。

 長い間撮りだめた時間の手柄というべきか。

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2014年

9月

22日

映画『柘榴坂の仇討』見て来ましたよ

 何年か前に藤原竜也が『最後の仇討』というのを主演した。これも仇討禁止令が出た後の仇討で、新旧の価値観それぞれが胸を打った。

 このタイトルを聞いて、

「そうだよなあ、禁止令が出たからといって、おいそれとは変えられない価値観に執着していた者は、一人や二人じゃなかったろうな。ヒトラーの側近の妻は、「誇りを失ったところで、子供を育てることはできない」と、我が子全員を手にかけたもんなあ…」

 などと思って見に行ったのだが、こちらは執着にエネルギーを燃焼し、疲れ果て、太政官の禁止令で蘇生した男(達)の物語。

 隣にすわった中年がボロ泣きして鼻をすすりあげるので、こっちもうるうる来た。

 昔、お散歩会で豪徳寺に行き、井伊直弼の供巡りの人々の墓を見つけて、ていねいにお詣りしておいて良かったなあ、などと思った。その時

「そうよねえ。井伊が暗殺されたってことは、当然、その周囲の人間はみんな死んでいるってことだものねえ。」

 と、あらためて思い至って頭を垂れたのだが、ホント、ていねいにお詣りしておいて良かった!廃藩置県の時、切腹した武士も多かったに違いない。今の“ひこにゃん”なんか見たら泣いちゃうだろうな。

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2014年

9月

22日

中巻できました。

 藤原道綱の母は、息子だけは、息子を思うと、息子は息子はと相当にうるさい!息子の恋文を全て見て添削なんかしちゃうんだから今の感覚だとあきれ返るのですが、文学が即座に政治力と結びつく時代のお話なのでした。

 

 今西祐一郎「蜻蛉日記覚書」からの抜粋です。

 

「『蜻蛉日記』上巻が兼家の詠草筆録という役割を帯びていたとすれば、道綱母は、「家の女性」でありながら、しかし摂関家有力者兼家の私家集的なるものの編纂という役目を担うことによって、摂関家文壇に関与していたことになる。」

「道隆や道長の父兼家の周辺には、その才気あふれる磊落な姿を仮名文で伝える役目を担う、清少納言や紫式部のような女房はいなかった。しかし、読者は『蜻蛉日記』の中に、後に太政大臣へと登る兼家の、『枕草子』や『紫式部日記』だったら記されなかったであろう、道綱母との贈答、愛人騒動といった若き日の天下人の素顔を、また伊尹『とよかげ』や兼通『本院侍従集』が正面から描かなかった官位の不遇や帝の代替わりによる栄達の姿などを読むことができる。

 すでに天下人と成りおおせた道隆、道長の姿を伝えることを役目とする『枕草子』、『紫式部日記』と、若き日の色好みとしての姿を伝える伊尹『とよかげ』、兼通『本院侍従集』、その双方の役割を『蜻蛉日記』はあわせ備えている。そして文学史としてみれば、『蜻蛉日記』は、摂関家における「家集」から「女房日記」へという文事の推移・変質の、その最中に位置して、両者橋渡しの役目を果たしているのであった。」


 

 息子・道綱はこんな男


 天禄元年12月(970年1月)従五位下に叙爵。のち、右馬助・左衛門佐・左近衛少将と武官を歴任するが、正妻腹の異母兄弟である道隆・道兼・道長らに比べて昇進は大きく遅れた。寛和2年(986年)の花山天皇を出家・退位させた寛和の変では、長兄・道隆と共に清涼殿から三種の神器を運び出すなど父・兼家の摂政就任に貢献。変から1年半ほどの間に正五位下から従三位にまで一挙に昇進し、公卿に列した。その後、異母弟の道長とは親しかった(妻同士が姉妹で相婿)こともあって、長徳元年(995年)道長が執政となると、その権勢の恩恵を受け、長徳2年(996年)中納言、長徳3年(997年)大納言と急速に昇進した。




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2014年

9月

15日

久しぶりのKindle出版『蜻蛉日記』です。

 今西祐一郎の判字と解説で、与謝野晶子の誤りを全て訂正した『蜻蛉日記』の出版です。今西の解説書や論文を読んでいると『源氏物語』の研究家が『蜻蛉日記』の研究をせざるを得なかった必然性がひしひしと、また、びんびんと伝わって来ます。それはあたかも新約聖書を読む人間が、旧約聖書を読むのが必然であるがごとく、また京都の専門家が奈良に辿りつくがごとく、必然とはこれをいうのであろうと思われたのでした。

 それにしても一夫多妻の辛さを嘆くというだけの物であれば、三石は一生読むこともなかった。

 

 これは三石による今西論の抜粋で、『蜻蛉日記(中)』に詳しく述べています。

 

 兼家と対立した状態からは日記は生まれなかった。執筆当時、作者に対する兼家の気持ちは決して背反したものではなく、協力し得る状態にあったと言って良い。兼家自らの家集でなかろうと、道綱母との贈答歌を中心とした家集が道綱母の手によって編纂されることは、兼家が和歌的実績を顕現するに充分効果的であった。安和元年を下ることそう遠くない時点で、結婚生活十五年間に堆積した家集纂集を兼家が要請したのではなかったか。兼家の歌は当初から道綱母の手元に保管されていた。彼女は世に認められた歌人であると同時に、兼家の歌の管理者であった。身分的階級的落差、あるいは彼女の性格的問題性を越えて、結婚生活が長期に継続したのは、兼家が彼女の歌人としての資質を尊重したからである。それは歌人としての能力ばかりでなく、歌の管理者としての能力であった。

古代文学においては、何らかの効用を抜きにして作品の存在は考えられない。藤原氏私家集隆盛の先駆となった実頼、師輔、師氏三人の集は、決して純粋な文学的衝動のみで編纂されたものではない。その成立には、骨肉相喰むと言われた藤原政権の争いと反目があった。彼ら権門にあって私家集は『後撰集』とともに権力表示を意図したものであった事を忘れてはならない。


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2014年

9月

08日

龍虎さん告別式

 受付は早稲田のチア・リーダー達でした。

 弔辞を読んだ大の男3人(北の富士と、御友人とアナウンサーの生島ヒロシ)が、大泣きしました。

 御友人は、「そっちでうまい店捜しといてくれ」と泣きました。

 北の富士は、「俺は、日本人の横綱を見るまでは死ねないんだ!」と、泣きました。

 生島ヒロシは、聖書の伝道の書を引用しました。僧侶達の前でいい度胸だと思いました。

 出棺は皆で拍手で送りました。

 元応援団が「龍虎!」と叫びました。

 本当に良い葬儀でしたよ。

 貴子さんが「亡くなってもしばらくは耳が聞こえるのだと聞いておりましたので、感謝をたくさん申しました」と言っていたのが印象的でした。

 龍虎さんは、早稲田の応援をするチア・リーダーの娘の応援にいつも来ていて、(早稲田の応援ではなく、娘の応援)試合が終わった時に、「ところで今日の試合はどっちが勝ったんだ?」と訊いたというエピソードを残しています。

 今年の正月2日には駅伝の応援に出発の大手町で会い、帝国ホテルで朝食をご一緒しました。私が日本酒を頼むと、龍虎さんも頼み、奥さんに止められて、

三石「お正月ですから、いいじゃないですか?」と言うのを「ねえ?」と見上げたいたずらなお顔が最後になりました。子供達には「死んだら富士山を見て父だと思え」と言い置いていたそうです。

 安らかにお休み下さい。  アーメン

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2014年

9月

01日

本当にSpecialなConcertでした!!

 渡部昇一先生が、にこにこと本当に嬉しそうだったのが印象的で、とにかくものすごく贅沢な感じがしました。嬉しい音楽会でした。音楽というのは本来、こういうものなのではないかと思いました。

 ものすごく変な感想ですが、「この人は、今からどんどんうまくなるだろうな。」と思いました。ピアノを再開したのが4年前の金婚式(=74才)で、現在は78才。息子達もその友人達も日本を代表する演奏家達です。

 そんなものに伴奏させてモーツァルトのピアノ コンツェルトを弾くんですもん。クラシック一筋という潔さも素敵です。今からの世の中で求められる種類の音楽家を見たという思いでした。

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